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響和堂プロデュース 邦楽コンサート Vol.1 「 和の煌めき 」 [コンサートやライヴで感じたこと]

和の煌き①.jpg

チラシ画:鳥居 礼さん「宇治橋(伊勢神宮)」

天から生を授かり 死して故郷に帰るまでという 人と人との一生の物語を

声 太鼓 尺八 箏 琵琶 ソプラノ(声楽) 三絃…という媒体を通して

7幕からなる ひとつのオペラに仕立てた それが「和の煌(きらめ)き」だった

あの日から1週間経ち やっと 起きたことの全体を 僕は 受け止めることができている

それにしても人は素晴らしい 弾き手と聴き手の間で 蝶番のように存在する「つなぎ手」がいた

その存在によって あらたな芸術を生み出すことの うれしさ たくましさ うつくしさ たのしさ

企画構成の
響和堂・仲村 映美さんに そして 参画された人全てに 感謝をしたいのです

和の煌き②.jpg

プログラム表紙画:鳥居 礼さん「橘」

OPENING(序)は、「天のあわ歌―ホツマツタエより」。歌と作曲はMisaChiさん。ベルカントとは異なる、地声の魅力とも表現したら良いでしょうか。聴き手の「耳」にではなくて、「胎(はら)」に届くような声で、日本神話に登場する、国産み・神産みをおこなったイザナキ・イザナミの「天のあわ歌」を。歌から生命を宿した生々しい「息」を感じました。

 

「燦 San」(大太鼓:壱太郎さん)

幕が上がり、三尺三寸(直径約1メートル)の大太鼓の前に一人の男が、筋肉の引き締まった背中を観客に見せてじっと立つ。大太鼓の皮が張られた面を、日の出のように見立て演奏されたのは、壱太郎さんの作曲・演奏による「燦 San」。西洋の大太鼓にはない引き締まった音色が神々しく地響き、燦燦と輝く陽光を浴びて身を清められた…そんな感覚。それでいて「声」の次ぎに古い「打楽器」を登場させて、歴史の歩みも「つなぎ手」は描く。

 

「颯 Sou」(桶胴太鼓:壱太郎さん、尺八:岩田 卓也さん)

尺八の岩田 卓也さんが加わって、馬頭琴で演奏されることの多い「ガダ・メイリン」を。編曲は壱太郎さんが受け持ち、楽器も大太鼓から桶胴太鼓へ。陰陽の世界を映し出す照明にも唖然。だけれど、最も感銘を受けたのは、尺八という楽器の息吹。名ピアニスト、マリア・ジョアン・ピレシュが、NHK「スーパーピアノレッスン」で、芸術家の生徒たち(子供から学生まで)に語った…「世界で最初の音は神様の息でしょう」…という言葉、僕は、あのシーンにとても感銘を受けて、ああやって芸術家たちは醸成されて、何年もかけて「理解」というより、教えを心に宿すとでもいったら良いのか…ともかく、尺八の中には「息」という魂が宿っていた。太鼓も心臓の鼓動のように「生き」ていた。

「花のように」(二十五絃箏:中井智弥さん、尺八:岩田 卓也さん 5:55あたりから)

二十五絃箏の中井 智弥さんが自作の「花のように」を、舞台下手(しもて)で弾く。舞台は余白が大きく残される。その余白には、花をイメージする照明がされ、まるで、ひとつの庭と化す。それにしても、二十五絃の箏とは、なんと可能性の秘めた楽器だろう! 「花のように」は、なんと美しい作品だろう! 中井 智弥さんは、なんと繊細な才能の持ち主だろう! 尺八の岩田さんが加わって、フィンランド、カレリアの子守歌「ピウパリ・パウパリ」を極めて細やかに聴かせる。「道成寺」では、「恨み」「悲しみ」という情念を、うねりをもって体現。鐘入り後、観客はひと休みへ。

日、陽、火、がテーマの中心であった前半から、後半は月に。「Lunarian Dance ルナリアンダンス」は、かわじかわ まりこさんが、舞台に映し出された満月を背に舞う。それは「道成寺」で感じる恐ろしさとは正反対の静けさ。根底にはどちらも人としての同じ「情」があるのに、こちらは優しく月に舞う。音楽は楽琵琶塩高 和之さんの曲。塩高さん自ら舞台に立ち、7~8世紀頃に中国から伝来された楽琵琶を奏でる。四本絃は、遥か遠くのシルクロード(絹の道)まで投げられ、現代と古(いにしえ)人の心象風景を、音で結ぶ。儚さ(はかなさ)は、尺八の中村 仁樹さんが吹く。

「まろばし…尺八と琵琶のための」(琵琶:塩高 和之さん)

「まろばし…尺八と琵琶のための」は、とても厳しい音楽。「まろばし」とは剣道の極意だそうで、舞台で演奏する二人の「心」「技」「体」あらわにする音楽といっても良い。武道において、精神的に純度の高い試合(というものがあれば)は、勝敗という次元を超える気の境地を楽しむのだろうか? 奏者によって変化する…即興がある…塩高さんの作品は、もっと知られて良い、もっと演奏されるべき、日本のある分野を代表する音楽だと僕は感じた。

「月によせる歌」では、森島 広子さんのソプラノ、山名 玲璃さんの十七絃箏、中村 仁樹さんの尺八・編曲で、「朧月夜」「うさぎ」「荒城の月」、ドヴォルザークの歌劇「ルサルカ」から「月によせる歌」といった、月をテーマにした歌が届けられる。艶やかな着物姿の森島さんの声は、宇宙(そら)の彼方に浮かぶそれではなく、間近にはっきりとした巨大な満月が、明るく照らしてくれるかのよう。聴き手たちは、明々、それぞれの中で月に想う。山名さんの弾く十七絃箏が、縦横に活躍したドヴォルザークの邦楽器伴奏版は、世界初演のはず。唱歌からオペラアリアまで、と簡単にいっても、実は意匠が凝っている。満月で跳ねるうさぎたちを、楽しく見た感覚もありて、ENDINGは…本日の演奏者全員が舞台に再び登場して、日本橋劇場に集まった人々と一緒に「うさぎ追いし かの山~」を歌う。「響」という字は「郷」の「音」と書く…という説明がプログラムに。だから響和堂さんがプロデュースされたコンサートの締めくくりは、「ふるさと」なんだと。伊勢神宮に参った弾き手と聴き手とつなぎ手は、また、それぞれの故郷に帰るのでした。

クラシック音楽をみなさんに。Classical Music Cafeへようこそ!

クラシック音楽をわかりやすくお伝えしようと「Classical Music Cafe」は、巨匠の名盤を、できるだけシンプルな文章で解説をしたり、映画や本に登場したクラシック音楽を、お洒落に美しく紹介したり、誰もが知るようなクラシック音楽のアーティストのエピソードを、親しみを持たせて書いたり…と、そんな考えを持って、僕は始めました(それは骨の折れることなのですが)。ただ、その中で、最も大切にしたいのは、音楽を外側から見ただけで、ああだ、こうだ、と書くことは、あんまりしたくない。なぜなら、そういった行為を、やればやるほど音楽から聴き手が離れていくようなできごとを経験したからです。それから、音楽家を「モノ」として見ずに、「人」(生命)として、どのような役目意義があるのだろうか? そんな見方を、わかりやすくお伝えできればなと感じて、僕は書いています。

前回紹介した中村 天平さんについては、「ダイナミック」「パワフル」という感想があるでしょう。ですが、彼は、今の世の中になぜ登場してきたのか? なぜ、ここまでやれるのか? 僕は、天平さんについては…「再現芸術」として発展しつくした感のある「クラシック音楽」が、創造芸術として回帰するかのような…という「存在目的」を書きました。無論、それは彼のみで成しえるようなことではない、と思いますが。

もし、創造芸術として「回帰」するのならば(それは良い悪いの問題ではなく「時」の潮流ともいうべきでしょうか)、「再現芸術」時代に移り変わる以前の、創造芸術全盛だった時代とは、明らかに違う背景があります。それは、西洋の古典(クラシック)音楽が、現代では世界規模で爆発的、均等的に広がったことと、特にこの日本で、なぜ? というくらいオーケストラが、プロ・アマ含めてが数多く存在していて、それを支えるに十分な音楽家を常に輩出していることと(「聴き手」も十分な数がいる、と書くのは躊躇しますが)、世界的に本当の意味での一線で活躍する日本の音楽家がいることと、そして、こういう日本にも…日本に限らず…固有の伝来の音楽があって、今も生き続けている…点です。そこが、かつての西洋における「創造芸術」全盛時代の取り巻く環境と、かなり違う。

数十年かけて、クラシック音楽自体がこれから「発展」しようと動き出すとき、創造の担い手たちは、各国に存在する固有の伝来音楽の影響を受けないわけにはいかない…見えかけ上では、創造芸術全盛であった時代に「回帰するような」形をとっても…と、僕は感じています。それは、ショパンにしても、彼の魂に継承された伝来音楽の影響を、直接・間接に受け結晶化させていった(マズルカなど)ことで、わかるというものです。

そういった視点で、「次世代のクラシック音楽」について思いをはせたとき、邦楽器、邦楽を中心としたコンサートについて、何かを見出し感じるのは、これは必然だと僕は感じます。「こっちはクラシック音楽。あっちは(純)邦楽。関係ない」とは、済まされない日が、はっきりとした形で、訪れるのだろうと思う。ですから、このブログで取り上げた次第なのです。実際、この日の演奏家たちは、個人差はあれど、邦楽では型破りの形式だったこの会に、未来につながる何かを、音楽家らしく直感しながら、語るのを僕は聞いたのですから。

そのうち、尺八とピアノと琵琶のためのトリオを、「ソナタ形式」で創作して自ら演奏する人が出てくる。いや、独りで完全世界を創ってしまう琵琶にこそ、バッハの無伴奏のような「形」のある作品が与えられても良いはず。いえいえ、あの大太鼓と、音楽表現手段のひとつの完成形といっても良いオーケストラで、「協奏曲」があれば面白い。

僕は、新しく開発された二十五絃の筝なんて聞くと、とてもわくわくします。かつて、ヴィオラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオラ・ポンポーサ、ヴィオラ・ダ・スパッラといった、「変則系」ヴァイオリンに属するこれらの楽器が登場してきた、かつての時代を彷彿とさせるからです。二十五絃箏では、左手で手前の絃をグリュッサンドすると、「人の声」に似た音色を発する。その「声」は、うめき声、囁き声、女の声、男の声…様々。その「声」を聴いたとき、真っ先に思い浮かんだのが、黛 敏郎さんの『涅槃交響曲』で聴くことのできる「梵鐘」のあの響きなのです。黛さんは、芸大を出た後、パリ音楽院に留学するも「失望」して1年で退学。その後、NHKの電子音楽スタジオで、梵鐘の「極めて複雑な音程を持った」響きを、スペクトル解析してオーケストラで再現した『涅槃交響曲』を作曲したのは、29歳。時代は1958年。

黛さんの存在は、何か始めから正統的なクラシック音楽の延長線上にいる作曲家…刺激的で、創造的ではあるけれど「型にはまった」…という風に、見てしまう人が、今は意外に多いかもしれない。しかし、ジャズから一時期影響を受けていたし…あの時代の作曲家のほとんどはそうだった。今の創造の担い手がロックに傾倒するのと同様…TVで耳にした人が多い「スポーツ行進曲」(別名ジャインアト馬場のテーマ)も作曲している人なんです。奇しくもスポーツといえば、「Get Sports」(テレビ朝日系列)のオープニングテーマ「ameno」では、アレンジとピアノを天平さんが参加。次世代に向けた何かを創造しようとする人たちが、似たような道を通っているように思えて楽しいけれど。

西洋のクラシック音楽が、次世代の音楽に向けて「発展」(何か良い表現はないでしょうか?)するとき、それが日本の中でとどまるのではない、世界に向けて精神的影響を与えるような、そんな音楽芸術を創造する鍵は、「邦楽界の星たち」が握っているといっても過言ではないと僕は感じるのです

…「創造と継承」このバランス感覚を持ち、次世代を見つめる目を持ったものが本当の次世代スタンダードになると思っています。ただの前衛、ただの保守では先生と呼ばれて終わってしまう…とは、ある先輩音楽家の言葉。

新しいと思っていた音楽が、実は世界が違うというだけで、既に使い古されていた内容であったり、古いはずの音楽にとてつもない革新性が潜んでいたり…ともかく、東西南北、国内外、現在、過去の「最高」に触れて、それでいながら、自己を通してのみしか成しえないことを、絶え間なく創造してゆくことが、きっと大切なのだろうと感じます。

何かとんでもない先を迎えるような話しを書いたけれど、吉田 秀和さんは、昭和36年、次の指摘をしていた。

(略)

私は、全く伝統的な日本音楽の道を歩いてきた人から本当に新しい創造が望まれるかどうかには多分に懐疑的である。ここでも私は予言と早計は慎みたいと思うが、しかし、私の若干の見聞からすれば、日本の音楽はあまりにも長い間世界の音楽文化の歩みから孤立していたので、特殊性はたしかに保存されているが、閉鎖的で発展性のない瑣末主義的な工夫が圧倒的に強くなりすぎてしまったのではないかという気がするのである(引用ここまで)。

「伝統的発想法と芸術―現代音楽の課題と方法」(白水社『吉田 秀和全集』3巻に所収)より

今の「邦楽界の星」たちは、はじけたように他のジャンル(ジャズ、ロック)へ興味を持って飛び込む。そのこと自体は、実は、吉田さんが着目した考えからすれば、決して「新しい」ことではなく、「芸術家」なら当然の行為。殻をわって、違う殻に入って、また殻をわってその先に!… きっと本当に新しい創造が望まれるのでしょう。その創造がなされたときにこそ、生き残った古典たちも鮮やかに現前に帰ってくると、僕は感じるのです。

そのような創造と継承の担い手こそ、僕は、心から応援をしたい。

この拙文を出演者とつなぎ手の皆さんに捧げます。読んでくださりありがとうございます。


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ciscokid

邦楽器は和の良さもあり、洋楽とのコラボでも
まったく違和感がなくさらに幅を持たせることが
出来るのではと思います。サンフランシスコ太鼓道場
と言うのがあり、こちらでも毎年太鼓ショウが長年にわたり
開催され、アメリカ人のファンも大勢いて、今では道場の
メンバーにもアメリカ人が多数参加しています。
by ciscokid (2009-09-23 10:55) 

アマデウス

「創造」は「融合」から生まれることはショパンの例でもご指摘の通りです。
「和の心、和の音楽性」を拡大、発展させて行くには「世界の心、世界の音楽性」との「融合」を通じての「創造」が必要だと思います。勿論「創造と継承」のバランスを保ちながら。その意味でご紹介頂いた「和の煌めき」はすばらしい企画だと感じました。
by アマデウス (2009-09-26 11:43) 

ヒデキヨ

おはようございます ciscokidさん

サンフランシスコに 太鼓道場があるのですね!
何だか 武道の感覚がしますね

クラシック音楽の世界では(例外もあるにせよ)

今までは 分業体制の下で「作曲家」さんが
和楽器と西洋楽器のための作品を作っていました

これからは 和楽器奏者も作曲家の役割を担っても面白いかと

傑作が生まれるには 常にコラボレーションしていて
インスピレーションを得ておくことが大切ですね
by ヒデキヨ (2009-09-27 09:12) 

ヒデキヨ

おはようございます アマデウスさん

ありがとうございます
この企画を考え出したのは 実はOLさんなんです
もちろん ただ者ではありません 情熱と考え方と行動が備わる人

融合…モーツァルトは既にあの当時やっていましたね
そして 武満さんも 武満さんは響きは融合しないのを承知の上で
和と西を並べて起用する…ひとつの確信犯でもありました

併せて 僕がいつも感じるのは 創造の担い手を受け入れる聴き手
聴く人がいなければ 音楽は成立し得ませんから…

>すばらしい企画

と書いてくださった アマデウスさんに感謝申し上げます
by ヒデキヨ (2009-09-27 09:33) 

モスラ

ご無沙汰しております。
お元気ですか?

記事をずっと遡っておりましたら、
あらま、岩田卓也さん!
以前、お話ししませんでしたっけ?
邦楽をやってらしゃるお友達の息子さんのこと。
卓也さん、つい最近も
賞をお取りになりましたね。
私も、
ホームページで、
初めて彼の演奏を聴いた時は、しびれましたのよ。

ここで、こんな風に紹介されていることを知ったら、
たぶん、大喜びだと思いますわ。
だって、息子さんの一番のファンは、彼女なんですもの。
早速、知らせてあげなくっちゃ!
by モスラ (2009-11-21 17:18) 

ヒデキヨ

なるほど モスラさんのお友達の息子さんなんですね
終了後一緒に打ち上げしましたが 岩田さんは屈託のない人です
同時に 岩田さんは まだまだまだまだ 伸びる人と感じます

by ヒデキヨ (2009-12-05 23:51) 

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