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コンサートホールに住まう「神様」 [コンサートやライヴで感じたこと]

先日、ご縁あって、都内某所にオペラを観に行きました。

何と言うか…演奏そのものについては、僕は何も感想を書かないでおきます。

ただ、そのオペラを観たホールで気づいたこと。

一流の…または、
一流を目指して身を捧げている人たちも含めて良いです。勿論、

目指したからといって「なれる」ものではなくて、世の中がそう「認める」ことが、

身を捧げるのと同じくらい大切なのですが…アーティストたちが、

全身全霊をかけた音楽や芝居が、いつも上演されているホール(空間)と、

そうでないホールには、ああ、明らかに空間としての「場」が違う・・・ということ。

「感動」が
座席や壁。天井や床、はたまた扉などの「空間」に刻まれるのか…

そういえば、オペラ座には怪人がお住まいだったですね。

原題は Fantôme de l'Opéra ですから、

「怪人」というよりは、幻、幻影、幽霊、とすべき「存在」。もしかすると…、

アーティストの「魂」や「理想」が集合して「何か」になったのかもしれません。


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岡本太郎。「ぶつかり合うことが調和」。 [敬愛するアーティストたち]



岡本太郎のこの言葉に深く共感する今日この頃。

「正反対のものがバンバンぶつかり合う事によって両方が開く」とも語る。

僕は、岡本太郎のこの言葉をきいて、

衝突と和合を繰り返して「新しい結晶体」が生まれる。それが「芸術」なのだろう、と感じます。

「尺八+琵琶+ピアノ」で、今回は新たな作品(結晶体)を御用意して開きます。

日時:2010年5月27日(木)19時~
場所:日比谷スタインウェイサロン東京松尾ホール
出演:中村仁樹さん(尺八)、塩高和之さん(薩摩琵琶、楽琵琶)、菊池智恵子さん(ピアノ)

詳細は後日アップしますが、
ぜひ、今のうちから御予定を空けて頂ければ、幸いです。
御来場、お待ち申し上げております。


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2010.2.26 尺八+琵琶+ピアノ=「絶対未聴領域」 [コンサートやライヴで感じたこと]

20100226@日比谷御客様.jpg

ほぼ満員の御客様。
今回のステージは完了。

「きき」にお集りくださった御客様、有難うございました。
そして、お手伝いくださった方々、有難うございました(写真は後輩の君が撮影)。

僕が感じたことを一言だけ書けば、「課題」は「伸び代」ということです。

塩高和之さんのブログ
仲村映美さんのブログ
川島さんのブログ


弾き手、つなぎ手、きき手…のお立場から
有り難いお言葉に感謝を申し上げます。


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走る作曲家・ピアニスト~村松崇継さん [敬愛するアーティストたち]

走る 作曲家・ピアニスト 村松崇継氏.jpg

 

お久し振りにお会いした作曲家・ピアニスト村松崇継さん。
最近の村松さんはとてもとても大忙し。そのスケジュールは過酷といっても良いほど。
お身体を壊さずに頑張ってられるな…。でも、お身体大切に。

エライなぁと感じるのは…、
作家先生として裏に留まるのではなくて、表に出てきて自らのイヴェントをこなすこと。
その姿勢は、いろんな意味で、とっても素晴らしいのです。ガンバって~!

写真は都内某所。
舞台裏の暗闇から楽屋へ向かうところ。


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21世紀の「新しい風」がここに [ご挨拶・ご案内]

20100226日比谷.jpg


2月26日(金)19時~、日比谷にあります、スタインウェイ東京・松尾ホールさんにて、
コンサートを主催させて頂きます(場所はこちら)。

尺八+琵琶+ピアノ、という編成の音楽が楽しめます。

ただ、この編成の作品がもともとありませんから、作曲しつつアレンジしつつ…となります。
当夜は、尺八ソロ、尺八+琵琶、尺八+ピアノ、
尺八+琵琶+ピアノの音楽を、お楽しみ頂
けたらと思います。ご興味のある方、ぜひお越しください。

尺八は、東京藝術大学を卒業し、数々のコンクールで優勝したイケメンの中村仁樹さんです。
中村さんのことを、みんなで、尺八の王子様、と呼んでおります。

琵琶は、塩高和之さん。薩摩琵琶と楽琵琶を奏でられます。本当に素晴らしい音楽家です。
ただ、そこに座っているだけ感じる風格は、王様と呼びたくなるような存在感のある方です。

ピアノは、菊池智恵子さん。ボストンの名門ニュー・イングランド音楽院を首席で卒業して、
クラシック音楽の基盤の上に、即興・ジャズ・爆音系ロックまでこなす方です。

当夜のおすすめは(全部おすすめですが^^)、例えば、

武満徹が1966年に作曲した「蝕(エクリプス)」がありますね。名作ですが、演奏に触
れる機会がなかなかありませんね。その「エクリプス」から大きな影響を受けて、塩高さん
が作曲されたのが、『まろばし~尺八と琵琶のための』です。素晴らしい作品です。これは、
ぜひお聴き逃しなく。

それから、中村仁樹さんの『たいまつ』『Aries』も、理屈抜きに楽しめる音楽です。

直前のご案内となってしまいましたが、もし、おききになりたい方がいらっしゃれば、この
ブログのコメント欄に、連絡のつきやすいメルアド、お名前(フルネーム)、人数をご記入
ください。
コメントはもちろん非公開にさせて頂きます。

お一人様2,800円です。2010.2.25(木)22時までの受付とさせて頂きます。
もし、お時間あるようでしたらぜひぜひ!


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「音楽は、自由な野の鳥」中村天平 2010年初コンサート(中編) [コンサートやライヴで感じたこと]

…「(続く)」と書いてから、何となく書き続ける気がせずに、もう5日も経ってしまった。
これから続きを書いてみようと思います。

その前に、コンサートやライヴで感じたことを書いているのだから、どんな様子だったのかを、
まとめておきたいです。

まず、中村天平さんご自身のブログから。どんな意図があったのかを知ることができます。
それから、聴き手の反応。それは「湧玉」さんから窺い知ることができます。mixiにも感想が
あり、弾き手と聴き手双方の感じたことのほとんどが、もう書かれており、僕が、新たに付け
加える必要もないか…と思います。

ですから僕は、ちょっと違うことを書きましょう。

先日、天平さんとお昼一緒に食べていたとき、ピアノ協奏曲が話題に出てきたのです。

…と続きを書き始めて、何と1か月以上経過してしまった。

その間、天平さんは、

NHK『みんな、二十歳(ハタチ)だった』に出演した。
フジテレビ『僕らの音楽』に出演して、倖田來未さんと共演をした。

この辺りは、ご本人のブログを見ていれば、細かに書かれているので、今さら何も書くことも
ないように思う。

それよりも、この間起きたこと。それは、やはり、思い出すのは、阪神淡路大震災…だ。
もう15年前になるのだな…。

僕は、大阪出身。あのときは、地面がうねるような、今まで体験したこともない地震だった。
だが、実家の屋根瓦が、数枚ずれただけで被災は何も受けていない。本当に有り難いことだ。

その後、余りの惨状に…今この文章を書いていても涙が出る…本当に僅かなことしかできぬが、
ボランティアとしてお手伝いに行かせて頂いた。

最初に行かせて頂いたのは西宮北口。井上さんというおじいさんとおばあさんのお宅だった。
水が出ないからと、片道30分くらい歩いて給水車のいる小学校まで汲みに行った。キャリー
カートに
ポリタンク2つをくくりつけて帰ってきた。

歩く間…

45度に傾いてしまって、たった一本の柱で、崩壊を防いでいる家。
火災後の一面の黒いすす。

西宮北口は、それでも比較的、被災が少なかった地域だった。

井上さんは「指揮者の朝比奈隆さんとは仲が良かった。隣組だった」というお話をされた。
水の出ない仮住まいには、
ヴァイオリンがおいてあった。

井上さんは、お元気にされてらっしゃるでしょうか?

数日後、被災のひどい地域にも、電車が動くようになってから、お手伝いに行かせて頂いた。

崩れそうなお宅の2階部分にもぐりこみ、僅かばかりの家財道具を、何とか取り出して…。
あのときのおばあさんの顔を、今でも覚えている。僕たちの行為に「有難う」と言ってくれた
気がする。しかし、とても悲しみに満ちた目と顔だった。

そう、何もかも奪い去ったのだ。あの地震は。

天平さんが出演したNHKの番組を見ていて、あの時のことを思い出した。

屋根が落ち、柱の折れ曲がった、崩れた家。天平さんの実家の写真がテレビ画面にあった。
瓦礫の中にピアノが何とか立ちはだかっている。幸いご家族は、皆さんご無事で有り難いこと
であるが、あのおばあさんの深い悲しみに満ちた目と顔。逝った者と同じく、残された者にも、
大きな試練を残した。そう、この男(天平さん)は、あのときを経験しているのだ。





あの演奏が良い。
この演奏の方が良い。うまい…いや、下手だ…。…とか。

どうも、こういう軸で音楽が、急にきけなくなってしまった。

何というか…あの店はうまい。この店はまずい。といっているのと、変わらない気がする。
たった一杯の温かい飲み物がどれほど貴重か。たった一つの音がどれほど貴重か。

天平さんの音楽は、生命の飛翔を感じる。
ラフマニノフやショパンやベートーヴェンは、「生命の飛翔」そのものではないか?

今の演奏家に、「生命の飛翔」がないとはいわない。
だが、圧倒的に不足していることがあるように僕は感じる。それは演奏できることへの感謝。
そして、きいてくれることへの感謝。

いや…それは、僕も含めて、音楽をきく側も同じではないか? と、感じる。




「音楽は、自由な野の鳥」結び編は、また、気の向いたときに書かさせて頂きます。

【御礼とお詫び】

nice!やコメントを寄せてくださった皆さま、そして、ご訪問くださった皆さま、御礼を
申し上げます。有難うございます。そして、返信やご訪問がままならず、ごめんなさい。


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「音楽は、自由な野の鳥」中村天平 2010年初コンサート(前編) [コンサートやライヴで感じたこと]

20100107天平①.jpg



「音楽は、自由な野の鳥」と、表現したのは評論家の吉田秀和さんだった。のっけから引用して
恐縮だけれど…、

カルメンじゃないけれど、音楽は、恋と同じ、自由な野の鳥であって、楽譜がなければ成り立た
ないが、その籠に無理に閉じ込めると死んでしまうのだ。「だからこそ、すべての原譜になる正
確な楽譜が絶対に必要なのだ」という議論はもちろん正しい。でも…(略)(引用ここまで)

『之を楽しむ者に如かず』(新潮社)より

この日(2010年1月8日、表参道カワイ「パウゼ」)の中村天平さんの音楽をきいて、吉田さんの
「音楽は、自由な野の鳥」という言葉が、心に浮かんできました。

約2時間繰り広げられた中村天平さんの世界。その中に「
Like a Bird」という名の音楽があった。

♪♪♪

鳥の様に自由に、それが僕の生きる源。
しかし成功への道を歩み始めようとした時にそれと供に失う物が多くあります。…(略)…
作曲に集中する為にカーテンを閉め切り、今が朝か夜かもわからず一日中部屋に引きこもり、
誰も訪れる事のない牢獄の中でアルバムの曲達を作曲していました。…(略)…
泥沼の中から翼をバタつかせて抜け出そうともがく様、その泥沼から抜け出した先には応援者、
協力者、ファンが待っていてくれた事に改めて気付いた感動を表現しました。
ありがとう(引用ここまで)。

これは、セカンドアルバム『翼(TSUBASA)』(TOCP-70809)に収録されている中村天平
さんご自身が
書かれた「Like a Bird」の作曲時の心象風景です。

そして、もうひとつ。また吉田さんから引用してみましょう。

私が、特に言いたいのは…音楽を楽譜に定着させるということが、いかに難しいことかである。
音楽を作る現場(筆者注:音楽を演奏する現場ではない)を少しでも見聞したことのあるものは、
極端な言い方をすれば、楽譜はあくまでもそれに忠実であらねばならぬ原典であって、しかも、
その場の状況によっては、楽譜そのものを変えてしまう必要に迫られる状態に陥ることがあると
いうことである(同じく『之を楽しむ者に如かず』から引用)。

「僕の曲には楽譜がないんですよ」

とは、大いに盛り上がった後半、質問コーナーで、聴き手が質問した「楽譜を出版してください。
天平さんの『フレイム』を弾きたいんです」に対する天平さんの答えです。


♪♪♪

僕の曲には楽譜がない。
だからといって、即興で弾いているわけじゃない。部分的にちょっと変えて弾く場合もあるには
あるが、それはほんの一部。ほとんどの曲は、作曲したときに作った通りに弾いている。
「いったいどうやって覚えているんですか?」と疑問に思う人もいるだろう。
これが、不思議と覚えようとしなくても覚えられる。鍵盤に触れる指の感覚、視覚、聴覚などを
総合して覚えている。複雑で忘れそうな曲は録音しておく。聴けばすぐに思い出す。…(略)…
そんな感じで、今の段階では楽譜がなくても不自由していない。でも、四十代半ばくらいなった
ら、すべての曲の楽譜を書くかもしれない(引用ここまで)。

昨年11月に出版された天平さんのエッセー『ピアニストになるとは思わなかった。』(ポプラ社)
からです。ピアニスト・作曲家を名乗る人から見ても、この発言は、ちょっと驚異的なことでは
ないかと僕は思いますよ。当たり前だけれど、自分自身も「再現」できぬ「チャラ弾き」などで
はありません。自分の「意」を音楽に託して、極め切った即興を、身体に定着させている感覚。

「再現性」があるところに、ジャズの「アドリヴ」とは少し違うことがわかりますね。僕がこの
話を聞いてイメージするのは、ピアノ協奏曲4番初演のときのベートーヴェンのエピソードです。

即興の名手だったベートーヴェンは、自分にしかわからない文字や記号だけを記したソロ楽譜で、
この作品を初演したらしい。もちろん、オケなど共演者のパートは、楽譜がないと演奏できない
ですから、きっちり書いていたはず。つまり、ベートーヴェンは、「頭の中に入っている」即興
を、僅かな記号を頼りに「再現して」弾いた、という具合でしょうか?

ベートーヴェンは、モーツァルトの協奏曲20番に、優れたカデンツァを残していますね。カデン
ツァ(≒即興的演奏)というよりも、あれは立派なひとつの作品です。つまり、当時の聴き手が
「テーマ」を出して即興演奏で応えるという…ベートーヴェンの「即興演奏家」としての素地が
発露した音楽なんです。何度も何度も即興をしたと思う。人とも競ったと思う…そんな活動…。

ここで、みたび、吉田さんに登場して頂きます。

楽譜通りにやることを目指して一生を捧げているかのような人のことをとやかくいう気は全くな
いのだが、そういう人たちと自分の創意を音楽に託したいと考えてモーツァルトをひいている人
たちとの間には大きな距りがある。…(略)…
モーツァルト自身も、前にもいったが、同じ曲をいつも同じにやったとは限らない。今という時
代は、音楽にもつ可能性の大きさ、そして再びそれを見出した時代でもあるのだ。
ああ、音楽!(引用ここまで)。

『之を楽しむ者に如かず』から

ベートーヴェンは、明らかに「自分の創意」を音楽に託したいと考えてモーツァルトを弾いた人。
では、天平さんは!

並べて書くことをお許し頂きたい…ですが、彼は「自分の創意」を音楽に託して、自らの音楽を
弾く人で、楽譜の定着の時機を、未来に予定している音楽家なのです。
ああ、音楽!

僕は、吉田さんの音楽をきく感覚…「自由な野の鳥」とされた…その感覚が、天平さんが用いた
「鳥の様に自由に…」に似ていることに驚くと同時に、吉田さんのちっとも「古びない感性」に、
そして、天平さんの音楽に対する純粋性に、底流を流れる本質の一致を感じるのです。

昨日と今日と、誰と誰との演奏を比較して、

スラーがこのようにかかった、

「ハ」を「嬰ハ」に弾いた、
シンバルがあった・なかった、

これらは、音楽の「部分」ではないか? と僕は感じるのです。

もちろん、それらの全てがどうでも良いことではありませんよ。ただ、音楽の「生命なる部分」
について、もっと大事なことを、僕に教えてくれた音楽家の一人が、中村天平さんなのです。

(続く)


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謹賀新年 音楽を「きく」ということ [ご挨拶・ご案内]


謹賀新年

旧年中出会うことのできた音楽家、芸術家や裏方さん。そして数々の素晴らしいコンサートやCD、
その全てが僕にとって「学び」でした。また、拙ブログをお読み頂いている皆さま、コメントや
nice!をつけてくださっている皆様、ありがとうございます。心から感謝を申し上げます。
音楽の本質に迫り、「クラシック」音楽の継承と創造に、微力ながらお役に立てれば、と感じて
おりますので、本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

平成22年元旦

♪♪♪

Classical Music cafeへようこそ!

今日は元旦。初詣後、恵比寿に住む叔父叔母の家に年始の挨拶から帰って、早くも夕方。
お正月恒例のヴィーン・フィルのニューイヤーコンサートを聴き終え、書いています。指揮者は、
登場2度目のフランス人ジョルジュ・プレートルさん。かくしゃくとしていて、良い感じでした。

僕の同僚のHさんが、プレートルさんを招聘した事務所で仕事をしていたことがあって、いつも、
「マエストロはね~すごいんですよ」と懐かしい顔で話しをしてくれます。伝え聞くエピソード
だけですら巨匠の風格を感じました。今日の「指揮」も、感じたままに、音楽をされていますね。

元旦は、「音楽をきく」ということについて、少しだけ書いてみます。

イタリア・クレモナに在住するヴァイオリン製作者の松下敏幸さんについて、昨年少しだけ紹介
したことがありますが、僕は、松下さんの発する感覚的な言葉…手作業と修練を通して研ぎ澄ま
された内容を持つ言葉で、衝撃と驚きを持って耳にしたのだけれど…こんなことを言ったのです。

「音楽は聴いちゃだめですよ」

「何を言っているんだ?」と感じる人もおられるかもしれません。

僕は、即秒ですぐわかった理解した…気がしたけれど、きっと、
多くの示唆を含むのは、間違い
ないと直感しました。「音楽芸術」にとって不可欠な要素である「楽器」の、大変優秀な製作者
の感覚と信念、そして人生に基づいた言葉ですから。

その後、僕が思ったのは、ああ、だから評論家の吉田秀和さんは、
「聞く」とも「聴く」とも書
かずに、音楽を、平仮名で「きく」と書くのだな…と。つまり、

「効く」「利く」「訊く」と「聞く」「聴く」も全部ひっくるめて、音楽を「きく」と書かれて
いるのかな?と。吉田さんは、音楽の表面的現象を論じるのでなくて、人生において、音楽を、
どう受け入れているか?を論じている…と僕は感じますが、吉田さんは、いつ頃から「聴く」と
書かずに「きく」と書いたのかを調べたのが、元旦の「事始め」でした。

『主題と変奏』

吉田さんが最初に書かれた本です。その中に収まる今年生誕200年の『ローベルト・シューマン』
は、
『近代文学』から先に発表されたもので、ときは昭和25年。今から60年前の1950年のこと。
吉田さんは37歳くらいで、もう既に「きく」と書いてしまっている。

「聞く」
でも「聴く」でもない。驚いたことに「見る」でもなく「観る」でもなく「みる」と。
「すき」とも書いてあった。なんという感覚だろう!これが、僕の今年の「初驚き」でした。

もしかしたら、平仮名で書く「流行」のようなものが、当時あったのかもしれないけれど、漢字、
平仮名のどちらを選ぶかは、執筆する人の「信条」「感覚」に任されるはずです。

それと、『主題と変奏』の解題を読んで思わず、ふきだしてしまった。

「それは、旅行へ行って旅行先のお寺かなんかの壁か柱に落書きしたら、その落書きを何十年か
たって、若い中学生や高校生が読んで、『こいつあいつじゃないか?あいつの落書き読んだぞ』
っていわれる…」(引用ここまで)

若いときに書いた『主題と変奏』を「落書き」にたとえて…ね。これには、大笑いした。

僕は、今年は、せめて「音楽をきこう」と感じます。

「聴」いていると…ね。音量のバランスとか、音色とか、ああ音程とか、リズムとか…そこから
「音楽」に入り「音楽」という部分で留まってしまうような気が、僕はするのです。
優れた演奏
や音楽は、音楽を創造した人、音楽を再現する弾き手の人生そのものが、投影されています。

そう、人生は、人それぞれですから…ね。
人生そのものに「優劣」をつけることは、なかなかできないと、僕は感じます。

ところで、
今年は、シューマンとともにショパンも生誕200年ですね。ここでショパンの作品を、
ひとつだけ紹介しましょう。変ホ長調の「ワルツ」(KK.IVa-14)。

演奏するのはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(1920~1995)。

ミケランジェリは、1949年のショパン没後100年記念祭オフィシャル・ピアニストでした。
若い頃は、ドビュッシー弾きというよりも、むしろ、ショパン弾きという認識が、世間にはあっ
たようです。
この録音は、1955年、ショパン・コンクールの審査員として招かれたときに、コン
クールの合間をぬって、ワルシャワで開催された演奏会の実況録音です。

実は、ミケランジェリにとって、重い肺病やらで、しばらく演奏できないでいた年が1955年でも
あるのです。ある意味、再起を賭けた久しぶりの公開演奏です。演奏できることへの喜びが感じ
られる輝いた演奏。聴き手が圧倒されたときに起きる暖かさと驚嘆が交じった拍手…。

音楽の創り手、弾き手、聴き手が見事に溶け合った瞬間の記録です。

僕は「音楽をきいて」いきたいです。できれば皆さんとご一緒に。

今年もよろしくお願い申し上げます。


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【御礼】「21世紀のスタンダード」は、この日から始まりました [日々の記録]

菊池さん、中村さん、塩高さん.jpg

洋楽器の王様ピアノを弾く菊池智恵子さん。和楽器の王様樂琵琶を弾く塩高和之さん。
尺八の「王子様」中村仁樹さん。尚、この楽器編成は滅多にないもので、貴重な写真なはずです。

公に宣伝した期間は僅か約20日間。それにも関わらず、しかも年末でお忙しい中、とても熱心な
聴き手の方々に多数お集まりくださり、心から感謝申し上げます。有難うございました。

「21世紀のスタンダード」は、この日から始まりました。

善福寺手帳さんのブログにご感想がございました。本当に有難うございました。
それからmixiにもご感想をお書きの、ひとみさん他の方々。本当に有難うございました。

♪♪♪

Classical Music Cafeへようこそ!

課題は(音楽的なことに絞ったとしても)多々出てきましたが、嬉しいのは、演奏されたお三方
とも自分に対して厳しい批評眼を持ち、それでいて「良いところを」エネルギーにしながら、次
への課題を的確に把握してくださっていることです。他者に対して、そして、自己批判も厳しい
塩高さんがブログに書かれていらっしゃいますが、このスタイル(洋楽器の王様+和楽器の王様
+尺八の王子様)で、曲が必要だと本気で感じてくださっていることです。その点は、中村仁樹
さんも全く同じに感じてくださっています。お二人とも作曲家ですから。

聴き手の多くは、超一流の音楽家や芸術家に触れる度に気づくはずです。

どのアーティストにも、この人にしか
できぬ「核」があるということに。その「核」に感動する
ことに。「核」から外れたことは「遊び」にしか過ぎませんね。勿論「遊び」は大切ですが…。

中村仁樹さん作曲の「尺八と薩摩琵琶とピアノのための<たいまつ>」。塩高和之さん作曲「まろ
ばし~尺八と琵琶のための」に接して、驚かれた方も多数いらっしゃったのでは?と思います。
僕は、そこに彼らの「核」の部分があると信じています。それに…、

これらの楽器のことに精通し、且つ作曲をするお二人を、僕は、過去の「西洋のクラシック音楽」
の作曲家…、例えば、ルイージ・ボッケリーニに近い存在だな…とも感じます。ボッケリーニの
業績のひとつは、通奏低音の役割に過ぎなかった当時のチェロを、即興性や豊かなメロディーを
持つ作品を、自ら創作して演奏して、当時において広め、そして後世に残した
ことですからね。

話を戻して、ピアノの菊池智恵子さんが「再現」と「即興」を柔軟にこなすことも重要な役割を
担っています。創造行為は、実は「即興」と「再現」の間にある行為なのですから。

ところで、なぜドビュッシーのチェロ・ソナタを、チェロの代わりに「尺八」で演奏するのか?
大急ぎで書いた当日の拙文プログラムにもありましたが、抜粋を引用(一部修正加筆)すると、

作品が本来持つ「精神世界」を、チェロで演奏する以上に、もし「それらしく」表現できるので
あれば、これこそ、この時代に生きる芸術家…弾き手…の仕事にもなり得ると思うのです。和楽
器による「それらしい」を、「ヨーロッパ」の人たちにも気づいてもらえたならば、クラシック
の演奏史において新たな歴史を刻むことになるでしょうし、和楽器の演奏家にとっても、楽器が
持つ「可能性」と「精神性」を「西洋」へ伝える…それも邦楽を使わずに…つまり「精神の逆輸
入」に携わるという新たな役割を担うことになるのです。

静かに静かに「21世紀のスタンダード」が、この日…2009年12月28日(月)…から始まりました。

お越しくださいました聴き手の方々、本当にありがとうございました。感謝申し上げます。

中村さん、塩高さん、菊池さん、有難うございます!
川口さん、石田さん、森野君…本当に感謝します。
響和堂の仲村さん、有難うございました。

次回は2月に開催致します。詳細決まり次第告知をさせて頂きますので、是非お誘いあわせの上、
ご来場くださいませ!!


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52階で聴いたグリーグ [コンサートやライヴで感じたこと]

52階のグリーグ①.jpg

「上手」「キレイ」という事柄以外に、僕にとって何か「学び」があったコンサートについては、
ちょっとくらい前のことでも、できるだけ書き留めてゆきたいと思います。

この日は、六本木ヒルズの森タワー52F展望台内で開かれた「スカイイルミネーション2009」の
「MADO LOUNGE SPICE CLASSIC LIVE」へ。

千葉 清加さん(第1ヴァイオリン)
重岡 菜穂子さん(第2ヴァイオリン)
三島沙帆さん(ヴィオラ)
中 実穂さん(チェロ)

といった人たちが、グリーグのカルテット(弦楽四重奏曲)やクリスマス・メドレーなどを披露。
手抜きの一切ない、骨格と技術のしっかりした、それでいて情熱の溢れる演奏でした。

ただ、僕が感じたことがもうひとつありました。それを書きましょう。

♪♪♪

Classical Music Cafeへようこそ。

音楽史をひも解くと、音楽は、食事やおしゃべりとともに供される芸術であることが、ひとつの
目的になり得た時代が一時期ありましたね。

それは、傑作絵画を背にして、美味を食する晩餐と似たような「扱われ方」ともいえましょう。

モーツァルト、ハイドン…他にもいますが…は、仕える、つまり給与を払ってくれる殿様の為に、
いや注文に応じて、そういった「趣き」の音楽を作ることもありました。

この日、ラウンジで行われたコンサートは、そのモーツァルトらが生存していた当時の人々が、

「ああ、こんな環境で、こんな風に、音楽を「わかちあって」いたのだろうか」…という感覚に
陥る、あるいは、ちょっと想像できそうな、そんな経験でした。


スプーンやフォークがお皿にあたる小さな金属音…

給仕人の足音…

お隣の人との気のおけない、しかも絶え間なく続くおしゃべり…

おしゃべりの中身といっても…

注文する男の威勢の良い声や、会社での出来事や趣味のこと…

女の甲高い笑い声…

200年前とちっとも変らないと思った。もっとも、携帯の着信音が鳴るのは現代ならではだけど。

今の「絶対的静寂」が前提の「コンサート」の環境とは大違いだ…とも感じました。

どちらが観賞のあり方として本物か正しいか?

という議論は今回せずとも、ラウンジでくつろぐお客は、アルコールを体に注いでおしゃべりし、
笑う…のは「正しい」と思います。そのためにお金を払っているのですからね。

それからもうひとつ感じたこと。これは「絶対的静寂」の環境では気づかなかっことですが…、


音楽のダイナミクス(強弱幅)に応じて…比例して…おしゃべりの音量も変わったという点です。

音楽が、ffフォルテッシモ(とても強く)弾かれたときは、結構おしゃべりが盛り上げる。一方、
静かな抒情的メロディー部分ではひそひそ話。グリーグのカルテットはその典型的例でした。

なるほど!

だから、モーツァルトやハイドンの…全てではないけれど…音楽には、劇的なフォルテッシモや
ppピアニッシモ(とても弱く)を対比した作品が…特に室内楽では…そんなに多くはないな…と
も感じたのです。

楽器の制約、様々な観点が絡み合うのは承知の上。また、その限りではない作品もありますよ。

でもね、
強弱が平板な音楽の方が、会話の邪魔にならないことを、当時の音楽制作請負人たちは、
ちゃんと心得て、音楽を「調達」して「納品」していたのかもしれませんよ。

フランス革命以降、ベートーヴェンの音楽は、端折って書けば、自分のための表現として音楽を
用いました。トロンボーンによる謳歌したフォルテの響きや、自分の内省をぶつぶつ語る弱音。
小骨が喉に刺さりそうなくらい繰り返される執拗なアクセント…。しゃべる隙を与えないですね。

当夜の演奏から、「クラシック音楽」の受容の仕方、あるいは「扱われ方」の「歴史」が透けて
見えてくる気が、
「ほんの少し」だけしました。

凡庸な演奏なら、「凡庸」なことに耳がいってしまって、今回のようなことは、気づかなかった
と思います。それだけ、彼女らが、真面目に的確に演奏していた…ということでもあるのです。

52階のグリーグ②.jpg

地上に降り立ってみると、ホワイトのキレイなイルミネーション。

もうすぐ、クリスマスですね。

2009年12月4日(金)森タワー52F 展望台内 MADO LOUNGE SPICEにて


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